2013年5月25日土曜日

言葉の力

May 25(sat)

ちょんに成る

ちょんとは、芝居の幕切れの拍子木の音のことです。
物事が終わる、解雇されるなどの意味があります。
彼はミスをして会社をちょんになる、と使えます。
ちょん is sound of wooden clappers when end of drama.
It means period of work,to be dismissed.
Employment gaps get hard to get new job.

2013年5月24日金曜日

Japanese dictionary

May 24(fri)

合い縁奇縁

合い縁奇縁とは、人と人との合う合わないは、全て不思議な縁によるものだ、
という考え方のことです。働く時、食事時、酒を飲む時、楽しいと感じるときは、
合う人と一緒に居るから、だと思います。
合わない人と酒を酒を飲んでも楽しくもないし、ストレスも溜まります。
自分の人生楽しい方がいい、それなら合う人をたくさん作れば良い。
この人は合わない、と感じた人でも見方を変えれば合うところがあるかもしれない。
ただ単純に、自分に合う、合わないではなく、合うところを探すことが重要なのかもしれません。

"合い縁奇縁" is way to think about relationship that
Good friendship and Bad friendship are from wonder things.
Good friendship has the feeling,I have "He is interesting","She is interesting",
and etc. People who have charming point is liked by others.
When the man or woman who I met at bar has some common topics, they can build good relationship each other.
So it is better knowing variable topics than not to know.
And to find other's good point has important factor when build good relationship and friendship.

2013年5月18日土曜日

orion


宇都宮のオリオン通りにオープンしたベトナム料理店
店の名前はベトナム語のありがとうをさす言葉から来ています。
It is the Vietnamese restaurant, is opened in Orion street in Utsunomiya.
The restaurant's name is from thank you in Vietnamese.
There are delicious dishes in the restaurant.
宇都宮市街を流れる川です。
木々と川の流れる感じがすごくマッチしています。



2013年5月11日土曜日

Globalish

April 13 (sat)

Change of our life

Now,Singapore,Malaysia,India, and more country has been growing up.
by the technology. Especially growing up Information Technology is so speedy.
English is so important for all people when go abroad from mother country.
"English on our business" is near our life. I feel that lately.
I have a friend who I met in vietnam. I felt that English is globalish when I went
to vietnam as travel. There are many national tourist. Spain,France,England in United Kingdom,United States.
They talked in English. English is not academic. It is communication tool.
There are No border business,which is like O desk and etc.
O desk is new way to work,which is used internet.
Company and Company,Personal and Company and Personal and Personal. How to work became
widely than before. Why don't we using this working style?

2013年5月4日土曜日

Klimt

Hot spring

Utsunomiya Public Art Museum

19 宇都宮市にある栃木県立美術館へ行ってきました。
クリムト展が開催されていました。クリムトは19世紀から20世紀にかけて活躍した
オーストリアの画家。1862年にウィーンに生まれた。
1876年に博物館付属工芸学校に入学し、工芸学校でクリムトは石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受けた。
1879年にクリムトは弟エルンストおよび友人のフランツ・マッチェと共に共同で
美術やデザインの請負を始めた。
ウィーンの美術史美術館の装飾の仕事などを行っている。
1886年から1888年まではウィーンのブルク劇場の装飾を引き受けており、この功によって
後に金功労十字賞を授与されている。ウィーン市からの依頼を受け1888年に製作した
『旧ブルク劇場の観客席』
は観劇する当時のウィーン社交界の人々を正確に描き第一回皇帝賞を
うけるなど高く評価された。
この作品によりウィーン美術界における名声を確立したクリムトは、1891年にウィーン美術家組合に加入し1893年に早くも美術アカデミー教授への推薦をうけたが、任命されることはなかった。1892年には父と弟のエルンストが死去している。 すでに装飾家として名声を得ていたクリムトは1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼される。『学部の絵』と名づけられたこの天井画は『哲学』、『医学』[1]、『法学』の3部からなる。人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、これら3枚の絵は理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こした。1896年に提出された構成下絵を見た大学関係者により行われた抗議は一旦は沈静化したものの、1900年と1901年に『哲学』および『医学』がそれぞれ公開されたことで論争が再燃し帝国議会において依頼主の文部大臣が攻撃される事態にまで発展した。あまりの論争の大きさにクリムトは契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却した。美術館および個人に売却された3枚の絵は後にナチスによって没収され、1945年にインメンドルフ城において、親衛隊が撤退する際の放火により没収された他の作品と共に焼失している(白黒写真および『医学』の習作が現存)。 この事件をきっかけとして保守的なウィーン美術家組合を嫌った芸術家達によって1897年にウィーン分離派が結成された。分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトが初代会長を務めている。分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たした。 クリムトは1902年に開催された分離派によるベートーヴェン展に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品したが反感を買う。この作品は長年行方不明となっていたが、1970年にオーストリア政府により買い上げられて修復を受け、現在ではセセッション館(分離派会館)に展示されている。 翌1903年の第18回ウィーン分離派展ではクリムトの回顧展示が行われた。この展覧会ではじめて出品されたのが、当時のクリムトが置かれた状況を映し出す『人生は戦いなり(黄金の騎士)』(1903、愛知県美術館蔵)である。 1903年にヨーゼフ・ホフマンらによって設立されたウィーン工房にクリムトは強い関心を示していたが、この団体に対しては美術の商業化であるとの批判が分離派内部からもなされていた。写実派と様式派による対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトとその同士は1905年に分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。 後にウィーン工房によるストックレー邸の壁画制作などを行い、上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけた。1910年代には作品も少なくなり、金箔などを用いる装飾的な作風から脱却していった。1918年、ウィーンで脳梗塞と肺炎(スペインかぜの症状悪化により発病)により死去した。ウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬されている